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白色テロ

2011/06/29
category - 政治
コメント - 6
                         
白色テロ

「白色テロ」と台湾で言われている、蒋介石の軍隊による台湾人大量虐殺事件は、近年になつて、やっと一部の人々の口に上るようになりましたが、終戦後半世紀余まで、台湾では、誰一人それを言う勇気は有りませんでした。

終戦の、1945年8月、連合国による委託管理として台湾駐留を任された蒋介石の軍隊を、台湾人は、「日本が戦敗して、祖国の軍隊が戻って来た。これからは自分達も、もう植民地の人間ではなくて、一国の国民になるのだ」、と喜び、心からの誠意を持って歓迎しました。 所が、上陸した軍隊に最敬礼をして頭を上げた目の前にあったのは、ずれそうに巻いたゲートル、太腿の上までの、よれよれの短いズボン、銃を肩に担いでいるのや、天秤棒で鍋釜、野菜などを担いで歩いているのやら。正に、戦時中、漫画に書かれていた「敗残兵」そっくりの汚らしい、だらしの無い格好の、今まで見てきていた日本の軍隊とは、天地の差の隊伍でした。蒋介石の軍隊は、疲弊し切っていた上に、員数を合わせるために臨時に集めたのや、道端で歩いていたのを拉致してきた者もはいっていたのでした。

駐屯した彼等の噂がすぐに全島に広まりました。夜になって電燈が着くのが珍しく、自分等も電球を買って来て、天井からぶら下げたが、夜になっても点かない。水道の蛇口を買って来て、自分等も柱にくくりつけたが、水が出てこない。此れは一体如何したことかと怒り、威張る彼等は、電気も水道も見た事が無かった連中だったのです。そればかりでなく、餓鬼のようになっている彼等の、それが当たり前のように、至る所での略奪、婦女暴行等の、目に余る暴行事件が次々に起こり、驚いた台湾人民が、それに反感をもつのに時間はかかりませんでした。

中国の歴史を見ると、占領した都市を先ず兵士に略奪させて功をねぎらった。と言うような事が良く出ていますから、蒋介石もそれに習ったのでしょうか。それとも、中国内部で日本軍と戦い破れ、共産党にも戦敗した憂さ晴らしに、当時すっかり日本的になっており、言葉も日本語が常用されていた台湾人を、日本人と同類と見なしての暴行だったのでしょうか。
大きな失望に陥った台湾人と、中国国民党政府との確執が遂に、爆発したのが、1947年2月28日に発生した、有名な2、28事件だったのです。

中国兵の、あまりにも理不尽な行為に怒った台湾人の反発は、瞬く間に全島に広がり、始めは台湾人側が優勢かと見えましたが、中国大陸に居た蒋介石側から直ちに送り込まれてきた、敗残軍隊ながらも武器を持っていた援軍と、身に寸鉄も持たず、戦闘経験の無い民衆との戦いは、日を経ずして台湾人の惨敗。それからは前にも増しての蒋介石軍による虐奪、無差別殺戮。平和的な交渉をと、出て行った医師や芸術家の民間代表まで、民衆への見せしめの為に、街の広場に引き出して蹂躙の上、残虐極まりない手口で殺す。など彼等は筆舌に尽くせない非人道的な鎮圧をしたのです。

殺されるものは殺され、逃げるものも逃げて、2.28事件は何万人もの犠牲者を出して間もなく静まりました。

しかし、事はそれでは済まず、蒋介石が次に取ったのは、台湾のリーダー級の人物を抹殺する事だったのです。それは、「台湾に潜入している共産党員を撲滅する」と言う名目で行われましたが、その大規模、且つ無差別な拉致、監禁、拷問、銃殺等の範囲の大きさは、2.28事件を優に越え、前述したように、あの頃の台湾で、自身で経験しなくとも、親戚、友人など、身近に犠牲者が無かった人は居なかったでしょう。と言うのも、共産党員を撲滅すると言う名の下に、中国大陸から蒋介石に付いてきた者達は、一寸でも己の気に触る人間には、すべて共産党と言う言いがかりをつけては密告して居たので、どれ程無辜の人が犠牲になったのか、計り知れません。

戦前の、日本統治下の台湾では、政策上でか、台湾人が官吏になって昇進することは極端に難しかったので、政治の勉強をしている人は殆どなく、ましてや一般民衆に共産主義とは何かなど、知る由も有りませんでした。それに、長い戦争の後で、知識欲に燃えていた、其の頃の台湾青年は、共産党の宣伝もはいっているとは知らずに、彼等の誘う「読書会」に参加したのです。この「読書会」に一寸でも顔を出したとか、其の中に友人が居たと言うものは、かならず標的にされ、捕らわれていました。叉、鉄道関係の人達も多かったようです。今思うのに、あの頃の中国では鉄道が唯一の文明交通機関であったので、彼等は鉄道を守るのに神経を使っていたのかもしれません。捕えられた人達、「政治犯」は、思想犯といわれ、思想犯として捕えられたものが帰ってくる事は皆無に近く、日毎に多くなる見せしめの公開銃殺、公開虐殺。(ちなみに、ずっと時代が下がった後、ある外国記者に対して蒋は、台湾には政治犯は居ない。と平気で嘘をついたそうです)

一般民衆をも巻添えにした、この恐怖政治「白色テロ」。是は確かに効果覿面で、それ以来、台湾全島の民衆は恐れのあま
り、2.2.8事件も、白色テロの事も口を閉じて誰も、何も話さなくなりました。中には自己防衛の手段としてか、すぐさま国民党の勧誘に応じて党員になり、彼等の言いなりに、同胞を摘発するスパイ活動に従事する者もあり、ずっと時間が立って、1990年代になつても、心ある者がこっそりと犠牲者の家族に当時の事実を聞きに行くと、「やっと、あの事を忘れて、平和に暮らしているのだから、再び邪魔をしないでくれ」と、インタビューを断る人もありました。人間とは弱いものなのです。

私の父も、その、台湾のリーダー級の人物を抹殺する白色テロの大きな犠牲者の中の一人でした。当時の父は、炭鉱と金鉱を経営し、紡績などにも手を広げていて、成功している事業家でありました。社会事業にも熱心で、殊に、当時台湾には唯一つの大学しかなかった事を思い、終戦当時日本から、国の為にとすべてを捨てて帰国したのに、職場を得ることの無かった優秀な人材を教師として、私立大学「延平大学」を、独自の資本で設立、又、芸術家を励まして援助もしていたので、社会的に尊敬されていました。それが彼等中国人の目に触ったのでしょう。

父が捕えられた為に、父本人ばかりではなく、家族もどんなに辛い目にあって来たことか。でも、私も 口を閉ざして、この真実を自分の子女には話しませんでした。私は自分の子供等が、人として持つべき正義感を持っている事を知っていましたから、万一子供等が台湾人の受けた陵辱、祖父の受けた残酷な仕打ちを知って、憤慨のあまり何かを仕出かしたら、と言うことを極端に恐れていたのでした。蒋政府のスパイのうようよしている台湾内では、唯でさえ、何もしなくても、私達、所謂「思想犯」の家族は厳重な監視の下に置かれていたのでした。一寸でも、中国からの難民である あの輩の気に触るような言動があったら、その日から、その人は姿を消されてしまいます。息子達をアメリカ留学の名目で出国させ、生活が安定したとき、私は始めてアメリカに行って、台湾に起こった政治的な事実を話しました。案の定、息子は「どうして自分が国内に居た時に話してくれなかった。もう今では手が届かない」と悔しがりましたが、始めから言って居たら、留学どころか命まで無くなっていた事でしよう。

父は、家族の懸命な奔走で辛うじて命だけは助かり、でっち上げの判決は、十年の実刑、市民権剥奪15年、全財産没収でした。彼等の目的は、指導者的存在だった父を抹殺する事と、父の財産だったのです。

あの頃、有る有名な新聞記者が、事実をローター通信社?かに発信したのですが、たちまち見破られて、記事を抹殺させられたばかりではなく、酷い目にあわせられたと聞いております。

蒋介石軍は、台湾に上陸した、1947年からの暴挙を其の儘続け、1949年7月15日には正式に全島に「戒厳令」を布告しました。それは、四十年近くと言う、世界に類の無い長期に渉り、それによって、台湾の民衆が政府の許可なしに海外に出ることも厳禁され、新聞雑誌はおろか、通信も監視されていました。ある日本の方が、「旧友達が何かを隠している感じだった」と言っていたそうですが、あの頃の、私達台湾人は、訴えるにも道が無く、じっと耐え忍ぶより他に無かったのでした。其の方のお友達も、きっと、言いたくてもいえない苦しみに耐えていらっしゃったのでしょう。

「誠実」「公益を重んずる」等の、現代社会のルールを身につけて居り、しかも武器を持たなかった当時の台湾人を、武器を持っている彼等が、脅し、騙すのは、赤子の手をねじるようなものだったのです。

こうして、白色テロは、政府によって事実を強制的に隠蔽され、誰も口にする勇気の無いままに、世界の人達ばかりか、現在台湾に住んでいる若い世代の人達にも半世紀近くも知らされる事がありませんでした。

蒋介石による戒厳令は、1987年7月15日に、その息子蒋経国によって解除されましたが、それは多くの恐れを知らぬ人達の努力と、犠牲のおかげであり、又、世界的な自由民主の趨勢が彼をして解除に持って行かせたのでしょう。しかし、狡猾な蒋の党羽、国民党は、解除と同日にそれと同意義異名の条例を発布するなど、直ぐには台湾人民を放さず、古い、人聞きの悪い条例を廃止するといっては、次々と新しい名称の法律を作って、世間を騙し続け、それは近年にまで続きました。

それでも、勇敢な台湾人によって、白色テロは徐々に明るみに出されて、台湾人による台湾の自由民主は、今では大きな進歩をとげています。それにもかかわらず、その時代を経験した私達の心の奥深くに、当時の恐怖は今でも残っており、まだすっきりと消え去ってはいません。当時の社会環境を経験した年配の人々の心から、当時の恐怖を拭い去る事は不可能な事でしょう。

白色テロは、それほどまでに、深い傷を台湾人に負わせているのです。

劉心心 2007年7月3日







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No title

よかったですね。お役に立てて幸いです。長い間ブログの管理をしなかったものですから、お返事が遅れてごめんなさい。

Re: No title

> 勉強になりました。

良かったですね。コメントをありがとうございます。

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Re: はじめまして

> Kikuchi様、はじめまして、京都の者です。台湾で今起きつつある大変な事態から白色テロについても初めて知り、こちらのブログにたどりつきました。
> 今回の事態に至る経緯として知っておくべきことだと思います。心をいためている友人は少なくありません。私のフェイスブックでこのブログをシェアさせていただきたいのですが、お許しくださるでしょうか。

御連絡をありがとうございます。どうぞ貴方のフェイスプックにシェアして下さいませ。できるだけ多くの方に台湾を理解して頂ければと考えております。

はじめまして

Kikuchi様、はじめまして、京都の者です。台湾で今起きつつある大変な事態から白色テロについても初めて知り、こちらのブログにたどりつきました。
今回の事態に至る経緯として知っておくべきことだと思います。心をいためている友人は少なくありません。私のフェイスブックでこのブログをシェアさせていただきたいのですが、お許しくださるでしょうか。

    
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