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思想犯

2006/08/16
category - 政治
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思想犯


謝聡敏

私はビラが入った三つの大きなトランクと一緒に、中型の軍用ジープに乗せられ、西門町にある奇妙な形の、高い塀に囲まれた建物に連れて来られた。鉄の扉が開かれると、目前には陰鬱な、三階建ての日本式の寺が広がっていた。私は両脇を二人の私服警官に挟まれ、左手にある平屋の一室に連れて行かれた。この恐ろしい雰囲気のせいで、ここが悪名高い地獄の「東本願寺」であることがわかった。

一九四五年に国民党の台湾統治が始まって以来、ここは秘密警察である「特務」の拷問監獄になっていた。多くのエリート達が東本願寺に投獄されたが、ここから生還した者はほんの僅かだった。東本願寺に投獄された者は拷問中に死ぬか、軍事裁判にかけられ、死刑、無期懲役、又は有期刑の判決を下されるのであった。

その部屋は幅四メートル、奥行き五メートルほどで、隅に木製のシングルベッドが置いてあり、中ほどには取り調べ用の机があって、一方に役人用の長椅子、もう一方には囚人が座る椅子があった。私はその犯人用の椅子に座らされた。白い天井から一筋の電線が垂れ下がり、裸電球が一つ、蒼白で脂ぎった顔を照らしていた。私は疲れをおぼえた。既に二日間、全く眠っていない。私は勾留手続の書類を書いている年とった士官にそっと尋ねた。「背が高くて片腕の、四十くらいの男を見ましたか?」老士官は、よけいな事だというように私をじっと見て、それから軽くうなずいた。私はまた聞いた。「もう一人、背が低くてずんぐりした男もいなかったですか?」老士官はまた軽くうなずいた。そうだったのか。彭明敏教授と魏廷朝も、東本願寺に送られていたのだ。

私達三人は昨夜、一緒に逮捕された。承徳路のある小旅館で、刷り上ったビラを三つの大きなトランクに詰め、他の場所に預けに行くところだった。警察が旅館を包囲し、私のシャツの襟を掴み、殴り付け、そして腕をねじりあげて、パトカーに押し込んだ。それから二人を見ていないのだ。

私達は未発表の、ある文章を印刷したために逮捕されたのだった。この文章には「台湾自救運動宣言」という題がついていた。四十年後の台湾はこの文章と事件の「四十周年記念会」を開催したが、私はこの事件のために、迫害され嘲笑され、辛酸を舐め尽くしたのである。

私が「台湾自救運動宣言」を書いたのはなぜか。
それは、私が高雄の鳳山陸軍軍官学校(陸軍士官学校)で教鞭をとっていたことに起因する。そこで同僚のある退役将軍が私に、台湾の前途についての話を始め、台湾の現状についての議論をしかけてきたのだった。

当時、台湾は蒋介石が統治していた。蒋介石は台湾を「大陸反攻」の基地にすべく、五十万人の軍隊を引き連れて中国から撤退してきた。膨大な数の軍隊と、どこにでも入りこむ「特務」――特殊な任務を行う秘密警察――が台湾を統治し、あの「白色テロ」を行って、異分子を排斥し、台湾のエリートを虐殺した。

この退役将軍は陸軍士官学校の学部主任で「翟主任」と呼ばれていた。翟主任の上官は「クーデター」を企てた為に長年軟禁された、かの孫立人将軍だった。

「孫立人将軍は、この鳳山で新兵を訓練するよう命令されて、台湾に来られたんですよ。」翟主任は私の独身寮の部屋で椅子に座って、小さな声で言った。「孫将軍は台湾の士官を一大隊に編成するということで、私は大隊長に任命された。孫将軍が捕まった時には、私はちょうど台北砲兵学校で訓練を受けていたので、難を逃れたんです。私は第二次世界大戦が終わった時には小将だったが、台湾に来てからは大佐にされた。孫将軍の昔の部下は皆、不安を感じて退役していきました。私は清華大学を卒業して、シカゴ大学で生化学を学んで修士を取り、バージニア軍学校(Virginia Military Institute)も卒業したので、ここの主任に招聘されたんです。」

孫立人将軍も清華大学とバージニア軍学校を卒業しており、つまり翟主任の先輩であった。
「孫将軍が主任に、台湾の士官大隊を訓練させようとした?」私は驚いて聞いた。
「もちろん、将軍は心中をはっきりとは言われなかった。陸軍総司令官であったし、アメリカの信頼もあり、独裁で腐敗した蒋介石に代わるには、最も有力な人物だった。将軍が台湾の士官の大隊を編成するのは、もちろん戦略上の配慮があったからですよ。」と、彼は認めた。
「台湾ではたとえ腹の中で悪口を言っても抹殺され、雑談の一言でも特務に捕まる。主任の話もそうなりかねないですよ。だいじょうぶですか。」と、私は、困惑して問いかけた。
「蒋介石のせいで、台湾はどうなると思います?世界では孤立しつつあるし、もし中国が冷戦を破ったら、台湾はもう国際的な立場を失う。早く蒋介石の統治を終結させて独立を求める以外、台湾に未来はないですよ。」
「どうして私にそんな話をするんですか?」私は話をそらしてみた。
彼は私をちらと見て、ゆったりと茶を一口飲み、じっくりと味わってから、淡々と明るく言い放った。
「先生は台湾人で、政治学をやって、士官学校で教えている。革命をしにきたんでしょう? 他の目的がありえますか?」

私は机の傍の椅子に座って彼を見ていた。机の前の窓から日が差し込んでいて、私の手にはまだ、開いたままの新聞があった。彼が部屋に入ってきた時には、アルジェリアの反乱軍がフランスに抵抗しているという記事を読んでいたのだ。中国はアルジェリアの革命を支持し、ドゴールは植民地問題のために、世界で孤立していた。フランスはアルジェリアがフランスの一部であり不可分であると主張していたのだが、アメリカはそれを支持していなかった。中国(中共)は国連に加盟していなかったが、フランスは中国にアルジェリアの支援を止めさせ、フランスに支持を取りつける必要があった。台湾は確実に孤立へと進んでいた。私は新聞を丸め、アルジェリア戦争の記事のところを彼に指し示した。
「私は台湾のラファイエット将軍になりたいんです。」
と、彼は続けた。「ラファイエットはフランスの将軍です。アメリカの独立戦争が起きた時、彼はアメリカに渡り、蜂起してイギリス軍に抵抗するアメリカ人を指導しました。私は台湾に何かを求めてはいません。ただ一軍人としての職務を果たし、孫立人将軍との知遇の恩に応えるだけです。私の息子は台湾人の嫁をもらい、孫は台湾籍に入れました。台湾が独立した後は、世界中を旅したいですな。第二次大戦の後は軍事視察団に二度参加して各国を回り、北アフリカにも行きました。アルジェリアのフランス人は二百万人で、ちょうど台湾の外省人と同じくらいです。反植民地主義の世界の中でフランスは、アルジェリアは不可分の、フランスの一部であると主張しているが、それは台湾が中国から不可分であるというのと同じくらい馬鹿げている。中共がアルジェリアの独立を支持するなら、台湾の独立も支持すべきですよ。」
その日のニュースが、翟主任の大弁論を引き出したのだった。

以来、私は真剣に軍隊と政治の問題を考えるようになった。陸軍士官学校の図書館と高雄アメリカ文化センターには、軍隊に関する蔵書が沢山あった。ある文集を見ていた時、レルナーの、革命と軍隊の関係を考察する文書をみつけた。

軍隊が動かなければ革命に影響を及ぼすことはないが、軍隊が革命中に動けば、ただちに影響を及ぼす。フランス革命とオーストリア˙ハンガリー帝国の革命は同時期に起こったが、フランス革命は成功し、オーストリア˙ハンガリー帝国では失敗した。研究者は両者の勝敗の要因を分析して、フランス革命では軍隊が蜂起した民衆とともに政府に対抗し、それが成功の要因となったとしている。オーストリア˙ハンガリー帝国の統治下では、オーストリア軍がハンガリーに駐留し、ハンガリー軍がオーストリアに駐留していたため、民衆が蜂起した時、軍隊は民衆と対立した。政府は鎮圧のために軍隊を派遣し、軍隊は自衛の為に、全力で蜂起した民衆を撲滅しなければならなかった。そして、オーストリアとハンガリーの革命はどちらも失敗したのだ。

台湾の大部分の上級士官は、中国大陸の出身者である。五十年代と六十年代には、軍隊と国民の対立は改善できなかった。私が陸軍士官学校で教えていたのは六十年代である。士官学校では、台湾人の割合はわずか三分の一だけだった。台湾では大部分の軍人とその家族は、竹垣に囲まれた「村」の中で暮らしていた。国民党政府はこの村を取り囲む「竹離芭」と呼ばれる垣根で、軍人と当地の人民の住む地区を隔離していた。
「なぜ竹垣を取り払って、軍人の家族が台湾人の中に入れるようにしないのですか?」私は軍官学校の曹という先生に尋ねた。
「士官の供給元だからです!」と、曹教師は答えた。「彼らの子々孫々がすべて士官になってほしいからですよ。政府は彼らに家族手当を支給している。人口が増えれば、手当も増える。それも一種の報奨です。」
私はクーデターには期待していなかったが、翟主任から台湾の指導階層に紹介してほしいと頼まれたので、わざわざ台北に行って台湾大学法学院の彭明敏教授に会い、翟主任の「台湾のラファイエット将軍」になりたいという希望を説明した。
「君は士官学校で既に目立っている。長居は無用だよ。すぐ帰りなさい。」
私はもとより翟主任の意思を伝えるために彭教授の門を叩いた。しかし私は地獄に送られ、台湾の「ラファイエット将軍」を口に出すことはできなくなった。

二.中華台湾国

落ち着いた感じの、中年の私服士官が二人やって来た。カーキ色のズボンと黒の軍靴で、彼らが軍人であることが見てとれた。手にはビラを持っており、机を挟んで向こう側のソファに座った。水色のシャツを着た男は、乾いてかさかさの顔に穏和な微笑を浮かべ、言葉を尽くした話しぶりに、彼の情熱が表れていた。もう一人の白いシャツを着た小太りの男のほうは、黙って座っているだけで全く表情を変えなかった。
「台湾人がここを地獄と呼んでいるのを知ってるね。」彼はゆっくりと言った。「我々はここで、地獄に落ちる者を救いもする。上層部があんた方をここへ送ってきたのは、あんた方の社会的地位を考慮してのことだ。我々が敢えて反体制分子を作り出していると批判する者は多いが、それは違う。我々の仕事は反体制分子を友に変えることであって、多くの者がここから出て、ずっと我々の為に工作している。きちんと話をしさえすれば、帰れるように上司に言ってやれるんだよ。」

彼は同じ語調で、何度もこうした話を繰り返した。その目には驕りがちらついている。台湾での国民党の統治は、幾度もの殺戮を繰り返し、反対の声はとうに消えていた。それでも特務は絶えず標的を探し、反体制分子を作り出していた。私はすぐに、この男たちが恐怖の特務なのだと知った。

二日にわたる取り調べで、私は眠気を覚えていた。警戒はしていたが、すでに特務の掌中に落ちて手も足も出ない。私達の印刷物は特務の手にあって、彼らのほうが優勢なのだから、私はただ黙々と聞いているだけだった。彼はまた言った。
「我々は戦乱や対日戦争や、中共との闘争をくぐりぬけ、鍛錬を忘れず、敵に致命傷を与えてきた。いわば無敵なのだ。目には目を、歯には歯を、絶対に引き下がりはしない。我々が台湾に来なければ、台湾はとうに中共の手に落ちていただろうし、あんた方も良い教育を受けるチャンスは無かっただろう?大陸の人民が苦難に満ちた生活をしているのを知っているかね?我々の多くは故郷を失い、家庭を失い、仕事を失い、言い尽くせない苦痛をなめて、忍耐などはとうに無い。あんた方は独立して中国から離脱するなどと夢見ているが、中国が離すと思うか?歴史上、どれだけ多くの地方が独立を求めて、中央に無情に潰されたことか。反対に中国はどんどんふくらんでゆく。『合久必分、分久必合(長く合わさっていれば必ず分かれ、長く分かれていれば必ず合わさる)』――これが中国の歴史の鉄則だ。この鉄則にはむかったら、我々は台湾で生存できなくなる。ただ我々は先手を打って、一人ずつ殺していくことが出来るだけなのだ。しかし上が真相の究明を指示したからには、あんたも事情を詳しく話しなさい。我々は秘密など守らせないよ。もし、少しでも秘密を持っていることがわかったら、すぐに連れ戻されることを忘れるな。」
「国民党政府も中央政府ではない。中共もまたあんたたちを地方政府とみなしている。中国は、台湾は中国の一部分だと言ってるでしょう。」と、私は冷やかに言った。

国民党の役人達の最大の誤りは、中国を統治する地位を失った現実と、中共と共存はできないことを、認めようとしないことである。「漢賊不両立、王業不偏安(漢と賊は両立せず、王は地方に安住しない)」――私の目的は「平和的共存」を促すことなのだ。
「おまえ達知識分子の考えることは片思いだよ。中共と平和共存したくても、中国は生存の機会を与えはしない。」と、彼は首を振りつつ言った。
「こちらが中国を国連に加盟させれば、どちらも加盟国として国際的な保護を受けられ、平和共存できるじゃないですか。」

当時、台湾はまだ国連に席があり、中国はまだ加盟していなかった。台湾は国連で、平等な立場で共存する環境を整えてから、中国を加盟させる機会を十分に有していたのに、国民党政府がその機会をみすみす逃してしまったのだ。
「大陸反攻と国土回復は疑う余地のない、神聖な我々の使命だ。」彼は怒鳴った。
彼はまた続けて、いくつかのスローガンを言った。興奮のあまりか、震える顔には苦悶の表情が浮んでいた。私は沈黙し動かなかった。

白いシャツを着た特務は、敵意を含んだ厳しい眼差しで私の顔を睨んだ。
「今の状況をきちんと認識したほうがいい。こちらは犯罪の事実を詳しく調査する。おまえは事情をきちんと説明して、過ちを認める。まずこちらがおまえの過ちをわからせてやるから、それから事実を説明するんだ。」
もう一人の特務がやっと口を開いた。彼ら二人は私の闘争意欲を削ごうと、一人が言えばもう一人がそれに唱和し、私の防戦を破る機会をうかがっていた。
「この文章はどうしたんだ?言ってみろ。」水色の服の特務が、苛立ちを抑えたふうで言った。
「私が書いたんです。」
「おまえが思想の責任を負わなくてもいい。おまえが言わなくても出所は調べられるが、お前が自分の口から説明し、身の潔白を証明する機会をやってるんだぞ。おまえには前途があるんだから、こんな所で葬られることはないだろう。これは外省人が書いたんだろう。台湾人を利用して我々に対抗する外省人もいるんだ。」
「誰のことです?」
「誰だ。自分で言え。」
「原稿を書いてくれる人など知りません。」
「お前を喋らせることはできるが、先に自分から言わせてやってるんだぞ。」
「無実の人間を傷つけるのはよくない。私は法学部を出て、政治研究所でも学んだ。私は思想を研究する人間なのだ。」

特務は空中を旋回して獲物を探す両翼を広げた禿鷹のようだった。「おまえが他人に代わって罪を着る必要はない。台湾人を煽動して社会を攪乱しようとする悪い外省人もいる。この文章をどうやって書いたのか言ってみろ。」
「私はただ、今日の台湾の国際的地位や、外交、軍事、経済、社会などを簡明に分析して、外省人は台湾人と共同して一国家を建設し、歴史のしがらみを捨て、平和と繁栄の機会を求めるべきだと主張した。それだけです。」

私はこの文章を書いた経過を思い出した。高校在学中にルソーの「懺悔録」を読み、大学一年生の時には時折、書店で英文の世界政治思想家文選を見ていて、その中にルソーの「民約論」があったので購入した。その本の中に、マルクスとエンゲルスの共産党宣言があり、一年生の夏休みのうちに何度も読んで、クラスメイトの魏廷朝とも議論した。マルクスの著作は禁書だったが、彼は図書館でアルバイトをしていたので、私を哲学科の図書館に案内してくれ、そこでマルクス全集を読んだ。マルクスの著作は読みにくかったが、共産党宣言は簡潔でわかりやすく、プロパガンダの模範とされているのだということがよくわかった。だが、そんなことを言うわけにはいかなかった。言ったら私は「紅帽子(アカ)」――台湾で最も恐ろしい罪名――のレッテルを貼られてしまう。私は防戦して持ちこたえなければならなかった。
「これを書いたなら、参考にした文献や本がたくさんあるだろう。どれを読んだか言ってみろ。」

日本統治時代にも、台湾には農民運動や文化運動などの啓蒙運動があった。私の故郷である彰化の二林地区は、まさに農民運動のメッカであった。日本は台湾でサトウキビの栽培を進め、林本源株式会社が渓州に砂糖工場を作った。農民が植えたサトウキビは、必ず製糖工場が採取しなければならなかった。サトウキビ車が小型鉄道の線路に沿って、サトウキビを製糖工場まで運び、重さを量った。農民達の間には、製糖工場がサトウキビの重さをごまかす話が伝わっていた。ある日、二林地区の保正(現在の村長や里長にあたる)十三人が、サトウキビ車について工場に来た。製糖工場の係員が重量を言うと、十三人の保正たちはもう一度量るように頼んだ。それから十三人保正が全員、サトウキビ車に乗った。十三人の保正の体重が加わっても、重量は五キロしか増えなかった。つまり、十三人の保正は五キロの重さだったという笑い話である。私が小さい頃は、「一番バカなことは、サトウキビを植えて製糖会社で量ること。」と言われていた。農民運動はサトウキビ農民のストライキから始まった。二林の農民はサトウキビの収穫を拒否し、百人あまりの農民と三十数人の監督官、警察官九人が衝突した。警察は刀を抜き、農民は投石して戦い、民衆九十三人が捕まった。そこで、私は幼い時から台湾の民主運動に関心を持っていた。大学二年生の時、私は法学部の図書館で、親戚の謝春木が書いた「台湾人の要求」を借りた。それには台湾の民主運動の過程が書かれていた。

突然、私はまた謝春木が第二次大戦前に中国国民党政府に参加し、戦後は蒋介石によって日本へ派遣され、また日本から北京に行ったことを思い出した。もし私がこの話をしたら、「共匪物語」になるに違いない。私は口をつぐんだ。
「この文章の思想はどこから来たのか、言ってみろ。」
水色のシャツの特務がまた催促した。
「一九五九年ごろ、カリフォルニア州立大学のスカラピノ教授が「康隆報告」の中で「中華台湾国」を主張した。台湾の聯合報、自立晩報にも掲載されたから、多くの人が読んだはずだ。私の政治研究も、台湾の前途を考えている。」
と、私は簡単に答えた。

五月のある晩、私は彭教授を温州街の宿舎に訪ねた。その宿舎は日本式家屋で、畳の上に木製の椅子が置いてあった。彭教授夫人はお茶を出した後、彭教授と私を話しやすいように二人きりにしてくれた。彭教授は、日本にいた台湾の左翼革命家、史明の日本語の本「台湾四百年史」を教えてくれた。また、ロンドンで出版された「中国季刊」についても話してくれ、最近号のテーマは台湾で、内政、経済、軍事、外交と未来を討論していたのだが、あいにく彭教授の手元には本が無かった。私は、史明もおそらくタブーなので、特務には話せないのを思い出した。そこで私は彼の身の安全を考えて、ためらいながら言った。
「殷海光教授が、カール・ポッパーの『社会とその敵の開放』を読むようにと教えてくれました」私は続けて言った。
「何度も読みましたが、この一冊が私に最も大きな影響を与えた本です。マルクスを含む多くの偉大な哲学家の思想を批評しています。」
囚人室の扉が開いた。特務は四時間ごとに交代していて、次の二人が入って来た。四組の特務が交代で私を詰問し、これは第二組だった。先に入ってきたのは背の低い中年の男で、無表情で、こせこせした感じだった。もう一人は、ほっそりした、少し若い男だった。ほっそりした男は部屋の隅のやかんから三杯水を入れ、一杯を私にくれた。私は礼を言った。
「普通の人間は我々を見ると腰を抜かして、許してくれと泣きわめくが、おまえはまだそんなに余裕があるんだな。」と背の低い方が皮肉って言った。
「正直に言うといい。捕まるまで、殷海光の所へ何回行った?殷海光の原稿は一回か、それとも何回かに分けて渡されたのか?」
「外省人の殷海光教授がそんなものを書きますか?」
「殷海光は台湾人を煽動して、大陸反攻は不可能だと言っているから、当然台湾人と外省人は協力して政府を覆せと、こういう文章で煽りもするだろう。この文章は外省人の為に書いたのだ。あいつだろうと見当はついていた。あいつは軍人も扇動して総統暗殺を企てている。」
「殷教授はひ弱な学者ですよ。暗殺なんかするものか。」
「皆知っているぞ。雷震が野党を組織したのも、殷海光にそそのかされたのだ。雷震の野党も外省人がトップになって、政府を倒そうとした。あの事件もここで扱っているんだ。殷海光と彭明敏はどう連絡しているか、正直に言え。」
「はは!殷海光教授は私達に警告していましたよ。国民党は彭教授を丸めこもうとして、彼に十大傑出青年の名誉を与え、陽明山会議に参加させるから、きっと台湾人を裏切るだろうと。殷先生も私達のために原稿を書いたりはしませんよ。問題が起こった時に、教えを請うだけです。」

私はこのこせこせした特務が殷教授を陥れようとするのを、必死にくい止めなければならなかった。私は原稿を書いていた時、夜半に一人で殷教授を訪ねたことがあった。教授は庭にある小さな書斎で私と会った。八月初旬の暑い夜だった。家の小路の入り口にはいつも夜の九時まで特務が監視していたので、私は十一時を過ぎてから門を叩いた。教授は半袖のシャツを着て、薄く弱々しい胸が見えていた。私は教授に言った。「先生は民衆に、圧制を拒むことをすすめておられますが、もしある日台湾人が決起したとして、啓蒙運動に対する先生の貢献を知らずに、先生を傷つけたらどう思われますか?」
彼は、こぶしを握り締めて、薄い弱々しい胸を叩いてこう言った。
「喜んで受けるよ!」教授の言葉に、私は深く感動した。このおかげで、私は宣言の中で何度も、台湾人と外省人は偏見を捨てて協力すべきだと主張している。この私の道徳上の訴えが、今日彼が追求される根拠になろうとは、思いもよらなかった。

三.悪い外省人

五日五晩、全く眠っていない。目の前に、小鼻が大きく開いた中年の男が現れた。鼻の頭はまるで血の匂いを嗅ぎつけたかのようにうごめいていて、タバコのヤニで黒くなった歯が見えていた。私にはもう昼なのか夜なのか分からなかったが、目の前で動く人影が増えていた。
「外省人にはいい奴も悪い奴もいる。雷震や殷海光、李敖のような奴等は悪い外省人だ。」と、この大鼻の男は言った。
「雷震は蒋介石の側近だったが、『自由中国』誌を出して蒋介石に疎外され、反対党を組織して逮捕され判決を下された。」と彼は続けた。
「悪い外省人は反逆を企てて、台湾人を引きずり下ろしたいだけだ。雷震は先頭にたって蒋介石を批判したし、台湾人が野党を組織する指南をした。我々が先手を打って捕まえなかったら、野党ができていただろう。雷震はもともと総統の側近で、家には総統官邸へのホットラインがあった。その反対党の組織化を画策したのが殷海光で、暗殺も画策したんだ。あいつがこの文章を書いたとしても驚きはしないよ。殷海光にどうやってそそのかされた?言わないなら白状させてやるぞ。」
「どうやって?」私は困惑して聞いた。
「おまえの脳みその中にあるものは、全部吐き出させる。我々にできないことはないんだ。」
「拷問が違法なのはわかっているでしょう。私は劉慶瑞教授の指導で拷問の問題を『現代法律の人身自由の保障』に書き議論している。劉教授は彭教授の同級生ですよ。」

私の一生の人権活動の中で、最初に政治監獄の話をしてくれたのが、劉慶瑞教授であった。学生時代の彼は文学青年で、常にロマン派作家の詩や文章を新生報の文芸欄に発表して紹介していた。左翼の写実派学生が文芸欄に書く文章は、突然見られなくなった。この種の学生はみな、左寄りの思想のために逮捕されていたのだ。

背の高い男が後ろから私の腰を抱え込んだ。真黒く日焼けした青年が私の顔を殴りつけ、続いて胸、腹を殴った。私は本能的にしゃがみ込んだ。それから縄でベッドに縛り付けられ、背の高い男が棍棒で両足を殴り続けた。私は痛みに耐えかねて呻いた。
「どうだ!いい音だろう!」日焼けした青年は、人の処刑を楽しく見物していた。
拷問の場面は残酷で悲惨なはすだ。しかしこの処刑人たちは正月のように騒ぎ、笑い、叫んでいた。

ドアがまた開いた。温厚な微笑みを浮かべた男が戸口から現れた。寛大な眼差しが黒い瞳に表れている。彼は驚いて言った。「何と言うことだ!拷問はするなと言っただろう!こんなになるまで殴って。すぐ起こしてやれ。」縛って殴った男がすぐに縄を解き、私を起こした。
「言うことを聞いて、正直に言いなさい。言わないつもりだろうが、それはよくない。こいつ等はどんなことでもするんだ。」と、彼は優しげに言った。
私はまた椅子の上に放り出された。腫れ上がった両足が、骨を刺すように痛んだ。
「我々はただ、細かいところまで、逐一思い出せるようにするだけだ。それを上官に説明しなければならないんだ。」と、背の高いほうが言った。
「殷海光のことを言えばいいだけだ。こういう悪い外省人に、台湾人がそそのかされて反体制になる。しかし彼等は政府に頼って生活しているのだ。どうしてこんな人間の身代わりをする…。」
「殷教授が話されることはすべて、西洋文化が中国の伝統文化に与える衝撃についてです。国民党が大陸から台湾に撤退してきて、台湾に中国文化と西洋文化の葛藤が起こりました。国民党は歴史的な精神文化を持ち出し、『道統』と呼んで、台湾の民主化を阻んでいます。こちらが国会の改選を要求すれば、『法統』でもってそれを拒否します。しかし政治学の文献の中にも『法統』の由来は見つからないから、殷教授に『法統』のことを聞いたのです。この文書の内容について議論したのではありません。」
「よく言った。彼はどう説明した?」
「国民党は歴史的精神文化について、文化的には『道統』と称し、政治制度では『法統』と称していると説明されました。国民党は台湾の将来を提示するすべがないので、時代の潮流に逆らって『法統』を持ち出しているのです。しかし時代の趨勢は止められないから、国民党はそれに引きずられて進む以外ありません。先生は元々国民党員でもあり、新しい観念と思想を吸収し、実証済みの理論を信じて冒険家のように新世界を開拓されたいだけなのです。その知識のない者達は、教授が横道に反れただの、忠誠心がないだのというのです。ロシア製の『思想偏差』というレッテルを貼って『思想に問題あり』と言ったりして…。」
「おいおい、我々に説教するつもりか?殷海光は伝統を否定し、指導者を打倒し、人心を動揺させた。おまえが正にその典型だ。政府を認めず、道に迷って、彭明敏の『一つの中国、一つの台湾』に目がくらみ、盲信している。思想に問題があるのだ。そこから救い出してやる。殷海光との関係を明確に説明しろ。」
「全面的に西洋化するという考え方は、早くから胡適が提唱しています。国民党が中国で敗退して台湾に撤退して来て以来、知識分子は方向を失って、中国の古い価値体系が崩壊したのです。殷海光先生は台湾のために新しい価値体系を作りました。外省人と台湾人を融合させ、野党を組織したのは貢献といっていいはずです。」
「台湾人と外省人が一つの国家を建設するというおまえの主張の陰には、殷海光が見える。だから、殷海光の仕業に違いないというのだ。」
国民党政府の神経は麻痺していて、国内の新情勢には無反応であり、世界の新しい環境にも適応不全であった。新時代を迎える勇気が欠如していたのだ。
「これが時代の趨勢でしょう。」と、私は探りを入れてみた。
「我々は大陸反攻をするのだ。」と、彼は言いはった。
国民党は変革を恐れており、「道統」に従いそれを実行する皇帝が良い皇帝だった。指導者である蒋介石はすなわち「哲学皇帝」で、特務は忠誠を尽くした。「道統」を維持するために、時には殺人も必要だった。古来から、多くの悪事が「道統」の名を借りて行われてきた。白色テロは指導者蒋介石の名によって執行されたのだ。

また交代の時間がきた。皮膚がかさかさに乾いた、水色のシャツの中年の男がまた現れた。
「政治事件と一般事件は違うぞ。」と彼は言った。「雷震には我々が先手を打たなかったら、野党ができていたはずだ。その時になって野党のリーダーを逮捕したら世界の一大事だ。政治事件は予防的措置だから、大きくもあり小さくもあるのだ。雷震は常々我々を罵倒していた。殷海光は多くを知りすぎていて、学生に伝えてもいた。包啓黄のことを言っていただろう。」
「包啓黄?あの射殺された軍法局長?どうして知っているんですか。」
「おまえが言わなくても、他の者が全部話した!」

当時、学校では軍需主任の大佐が汚職事件で逮捕されたという噂が流れていた。その妻は軍事局長包啓黄に賄賂を渡したが、包局長は大佐の妻を強姦し、大佐を射殺した。大佐の妻は、中山北路で蒋介石の公用車の列を止めて「街頭直訴」をした。その結果、蒋介石は包啓黄を死刑にした。死刑は包局長が建設した刑場で執行された。自分が造った刑場で処刑される、最初の死刑囚になったのである。包局長の事件は軍事裁判の腐敗と暗黒面の象徴だった。政治事件の裁判が、これらの殺人鬼が指揮する軍事法廷に付されているということに、非常に失望した。
「殷教授から包啓黄局長の話は聞いたことがありません。しかし、監察院長の于右任はロシア革命の崇拝者だと言っていました。于右任は彼の詩の中で東アジアの解放を使命と感じていると言っています。国民党が革命を始めた当初は、思想も色々分かれていましたよ。」
「総統は于老人には相当な敬意を払われている。政治とは忠誠を求める以外に原則はない。一つの政党、一人のリーダー、一つの主義、我々に多元論はない。殷海光は学生に誤った情報を吹き込んでいる。忠誠であることに疑いを持って動揺させ、指導者を打倒し、我々を分裂させている。奴を逃さないぞ。言ってみろ。『一つの中国、一つの台湾』はどこから来たものだ。」
「カリフォルニア大学のスカラピノ教授が、新聞で『中華台湾国』の構想を述べていると言ったでしょう…。」
私は意識が朦朧としていた。真っ黒く日焼けした青年が突然、背後から稲妻のように跳び出し、激怒のあまり手を震わしながら私の襟首を掴み、胸に片膝を突きつけて怒鳴った。
「また新聞で見た、か。みんな新聞のせいにするのか…。」
私はふいに、彭教授が貸してくれた、史明の日本語の『台湾四百年史』を思い出した。拷問は確かに効果があるのだ。しかし話すわけにはいかない。史明は日本にいる。国外の関係もまた大変である。彭教授はまたイギリスで出版された『中国季刊』を、台湾で編集することを提案していた。私は魏廷朝に頼み、中央研究院からこの本を借りることができた。しかし、これは更に問題を起こしかねないので言いたくなかった。私は東西冷戦から、欧州の宗教改革を連想した。

水色のシャツを着た中年の男は、日焼けした青年に、手と膝をおろすよう指示した。私は慎重に言った。
「東西の冷戦から、十六世紀の欧州の宗教改革を思い出しました。スペイン王室はオランダの新教徒を鎮圧しました。オランダは宗教改革の要衝でした。欧州各地でカトリック教会の迫害を受けた新教徒が次々とオランダへ逃げ、オランダはスペイン王室の暴政に反抗して独立国家を建設した。宗教的、政治的な寛容さが欧州各地の難民を引きつけたんです。難民もオランダに文化や技術を持ち込み、それが各種の産業を生みました。オランダの各宗派は、自由という共通の信念を持っている。東西冷戦の中で国民党政府は『自由中国』と自称しながら、自由を埋葬しているではないですか…。」
「なぜオランダを思いついた?」水色のシャツの男が言った。
「オランダは台湾の最初の殖民政府だ。私はオランダが様々な思想を取り込んで産業を発展させ、自由を愛したと同じ様に、台湾もアジアに立脚してほしいのだ。自由も、台湾が中国に貢献した思想だ。台湾は開放に向かって進むべきです。」
「なんだと!我々に宣教する気か。共産党のすごさを知らないだろう。共産党が自由を隠れ蓑にして台湾を覆えそうとしているんだ。」
私は彼の乾いた顔に、陰鬱で恐ろしい表情が現れたのに気づいた。私はこの探るような眼差しから、視線を白いシャツの小太りの男に移した。私はしばらく沈黙してから言った。
「アジアにも難民を受入れる国土はあります。第二次世界大戦前、日本軍の迫害を受けた多くの台湾の農民運動家や自治運動家たちが、次々に香港や上海租界に逃げました。多くの中国の共産主義者や自由主義者たちも、上海と香港に避難しています。欧州の宗教改革で生まれた新教徒は、自由をオランダの愛娘と讃えていました。我々にだって、台湾で自由の国土が作れるはずです。」
「中国から逃げてきた者は、台湾に来ているではないか。」小太りの男が言った。
「そうだ。台湾に来た人と、台湾の優秀なエリートが東本願寺に来て、それから緑島に送られます。台湾大学の人間は、「来い来い台大、行け行けアメリカ。」と言うでしょう。良い人材はみんな逃げています。アジアには台湾が必要で、台湾は自由が必要なんです。」
「中国の歴史は『合久必分、分久必合』が鉄則だ。殷海光は完全な西洋化を主張して、中国史の鉄則を忘れたのだ。例外があるかね?」小太りはまた聞いた。
「子供の頃から『水滸伝』を読むのが好きでした。台湾人の黄得時が日本語に訳したものだ。第二次世界大戦後は中国語で出版されました。水滸伝は小説にすぎないが、明朝の陳忱の書いた『水滸伝後伝』はもっと好きです。勇敢な梁山泊は中原の戦乱で居場所がなくなり、船を奪って航海しました。無数の困難を経て全鰲島で義賊になって、後に朝廷にシャム国王の位を授けられました。中国の『合久必分、分久必合』とは小説家の論だが、小説家にも海洋国家の構想があったのです。つまり現実の政治で言えば、フィンランドはソ連の隣だが、小国がどうやって生存しているのか、私達が研究する価値がありますよ。私たちも同じ船上にいるのだから。」
小太りの男の目が光った。乾いた顔の中年の男は険しい眼で私を見た。
「誰がおまえと同じ船上にいるのだ。台湾は変わりはしない。我々は大陸反攻をするのだ。おまえの背後にいる悪い外省人が誰か言わせてやる。協力しないなら、歯を叩き折られて、血を呑む覚悟をするんだな。」
二人は一緒に立ち上がり、少し若いほうも彼らと一緒に取り調べ室から出て行った。警備の私服士官が交替に入ってきて、拷問の現場を掃除し、私を起こして休ませた。

四.盗まれた宣言

一九六四年、蒋介石が統治する台湾はまだ熱狂的な反共時代であった。第二次世界大戦中の青年はみな、日本の軍国主義教育のもとで育った。日本の軍国主義を批判する青年は暗闇の中で希望を探り、ある者は西洋の自由主義に傾き、ある者はソ連と中国の共産主義に共鳴した。戦前の彭教授は日本の軍国主義に反対し、従軍を拒絶した。当時、文科の台湾人大学生は従軍させられていた。東京帝大で学んでいた彼は、従軍登録をしていない学生に呼びかける学内放送で、彼の名前が呼ばれるのを聞いた。彼は密かに大学を離れて長崎に行き、医師である兄を訪ねたのだが、長崎で米国の空襲に遭遇し、片腕を失った。東大の先輩であり教授をしていた楊基銓氏が、台湾に戻って宜蘭郡守をしていた。楊氏は私に、第二次世界大戦中、良心ある青年はみな社会主義者だったと話してくれた。彭教授は戦争を拒否し、自由主義的な理想を抱いた。彼は原稿の作成中、共産主義的な色彩を持たせてはならないと再三言われた。

不眠不休にさせ自白を強要する疲労尋問で、特務が反復して質問をしてきた。
「彭明敏はフランス留学中にどの左翼の文学者と学者に接触したんだ?周恩来はフランスに留学して持ち帰ったのは社会主義だ。今のフランスの学生も社会主義に深く影響されている。彼らは三十年代の人類の理想はソ連にあり、六十年代の理想は中国にあると言う。自由主義者は死に絶えた。彭明敏と殷海光も同じだ。フランスではまだ学生運動が盛んだ。日本も反安保で、指導者は自由主義者の有名な学者だ。国家の安全を左右する学術思想を大学教授に教えさせるのは危険だ。学校はやはり軍人が管理する必要があるだろう。違うか?」

私は木のベッドに横たわって傷を癒しながら、特務が疲労尋問で話したことを思い出していた。確かに彼らが話したことは、彼らの意見――彼らの本音――を表しているのだ。

一八九八年にフランスの作家ゾラは、ユダヤ人士官ドレフュス大尉の反乱の冤罪を救うために、「私は弾劾する」を書いた。その後首相になった国会議員のクレマンソーが、政治に関係する文筆家、学者を「知識人」と初めて呼ぶようになった。彭教授と殷教授は「知識人」の役割を果たしていたのだ。クレマンソーは「戦争を軍人に委ねるのは荷が重過ぎる。」と言った。今の国民党政府は反対に、学術思想は国家の安全を左右するから大学教授に委ねるのは危険だと言うのだった。

だれかが私の身体を揺さぶった。私は本能的に手で身構え、眼を開くと、萎びたかさかさの顔が目の前で動いていて、声が聞こえた。
「ビラは一体、何枚印刷した?」
たった一週間だが、私はすでに特務の侮辱には慣れてしまっていて、体を横にして簡単に答えた。「一万枚。」
疲労尋問で頭は朦朧としていたが、それでも起き上がってズボンを履き、白シャツをひっかけて椅子に座った。萎びた顔の男は慌てふためいた様子で机の横に立っていた。
「なぜ二百枚少ないんだ?」
私の目はくらんでいたが、彼の質問が目を覚まさせた。すっかり落ち込んでいたが、この質問は私に一縷の希望をもたらした。
「誰が持ち出したんだ?」彼は懇願するように聞いた。
「印刷屋の主人か近所の子供でしょう。持ち出せば密告できるし、もちろん売ることもできます。」
「もう調べたが取っていない。」
「旅館の女中かな?警察は?警察はいつも窃盗団とグルになっているという話しを聞くし、人を殴るくらいだから、当然盗みもするだろう。」
「彼らもやっていない!」

印刷のいきさつも、はっきりと私の脳裏に浮んで来た。
一九六四年にはまだコピー機が発明されていなかった。大量の広告を印刷するには、タイプか活版印刷の二つの方法しかなかった。手書きは筆跡を残すので非常に危険であった。私の事務所は仁愛路の中日文化協会ビルにあった。中日文化協会には美人のタイピストの女性がいた。私は何度も彼女に近づき、タイプを頼もうとしたが、口に出せなかった。そこで、萬華の印刷工場の黄社長を思い出した。黄社長は政治大学の卒業生の黄文雄が紹介してくれたのだった。

私は政治大学の研究所(大学院)の寮に住んでいたことがあって、研究所の食事が学部より少し良かったので、多くの学部生が研究所に食事に来ていた。新聞学部の学生であった黄文雄はその食事仲間として知り合ったのだ。彼は時々夕食の後、私とクラスメートの史静波と一緒に、指南宮の階段を登った。史静波は大学一年生の時、李敖と同じクラスだったので、よく文星書店(当時前進的な本を出版していた出版社)の話が出た。史静波はちょうど、英国の政治学者ラスキの思想についての論文を書いていて、彼が晩年の親ソ言論によって自由主義の立場を失ったことを惜しんでいた。私たちもバーナード・ショーやウェッブ夫妻のフェビアン協会の人物が、ソ連を訪れた際の言論が集団農場や強制収容所の残酷さに触れていないことや、ラスキと『一九八四』年の作者オーウェルの思想を比較したりした。

私は陸軍官校で教鞭をとり、黄文雄も鳳山歩兵学校で訓練を受けていた。休みの度に、彼は軍服姿で私の寮を訪れ、軍隊についての意見交換をした。私は今回の宣言の中でも、その時の意見を盛り込んでいる。その後、彼は兵役で金門へ行くことになったと手紙を書いて寄越した。彼は部隊で「射撃の名手」に選ばれ、国慶節の射撃大会で優勝した。「射撃の名手」という呼び名が、彼の人生を変えた。ニューヨークのプラザホテルで、「特務のトップ」と言われていた蒋経国を撃ったのだ。彼が出国する前、雑誌を出版する計画を話したところ、信頼できる友人で、印刷工場を経営している黄社長を紹介してくれたのだった。

黄社長の印刷工場は萬華の古い通りにあった。入り口から入るとすぐに並んだ印刷機が見え、夜でも止まらぬ機械の騒音が、私たちが秘密の話をするのに好都合だった。黄社長は黄文雄の同級生で、立て板に水を流すように喋り、どんな話でもした。私は率直に、印刷したいのは禁制の文章だと言ったのだが、この私の発言が彼の熱意と好意を削ぐことはなかった。
「うちみたいな規模の工場でやっちゃいけない。」彼は婉曲に言った。
「国民党の『線民』(一般市民で密告や情報提供をする者)も白色テロも、どこにでもいるからね。うちの従業員はみんな印刷組合の組合員だ。労働運動で労働者の結社の権利を勝ち取ったのに、国民党は組合を利用して線民をもぐりこませ、『保密防諜(秘密の保持とスパイ防止)』の訓練をして、実地にもやらせている。私の工場なら文選、組版、印刷、製本の一貫作業ができるが、全部の工程で線民が監視している。小さい工場でやったほうがいい。文選と印刷はそれぞれ小さい工場がある。こういう工場に合わせて、萬華には版下工場もあるし、活字を作る工場もあるし、二、三台の印刷機で主人が職工を兼ねる工場もある。」
私はずっと黄社長の、熱心で朗らかな顔を見つめていた。彼は鉛の活字が買える店と、版下工場の住所を書いてくれた。
「版下の作り方はね。まず文章を清書して、問題になる部分の文字を抜き取って空白にする。次にそれと同じ字数の他の文字で空白を埋め、工場で版を組んでもらう。版下ができたら、活字工場で元の文章に差し替える分の活字を買う。そして版の不要な文字を抜き、元の文字をそこに埋め込めば版ができる。」
「どこの工場に行けばいいですか?」
と、私は尋ねた。
「そこがポイントだよ。印刷業は、ポルノ小説だけが自由なんだ。萬華にもポルノ専門の印刷工場がある。中国語も日本語もある。場所を教えてあげるから、すぐにわかるはずだ。」
そして彼はポルノ小説の印刷工場の場所を書いてくれた。
私は黄社長に別れを告げ、彼がくれた情報を頼りに、版下工場と活字屋と、ポルノ小説の印刷工場を探した。彼のアドバイスはありがたかった。私は彭教授と魏廷朝に印刷の方法を説明したが、それを誰が教えてくれたかは言わなかった。審問中にも、この素晴らしい助っ人のことを話しはしなかった。

私はまず手書きで、この宣言を書いた。文中からタブーとされている文字を抜き、「国民党」を「共産党」に換え、蒋介石を「毛沢東」に換え、「一つの中国、一つの台湾」を「反攻大陸、統一中国」に換えれば、典型的な反共宣伝文であった。表題は空白にし、ゴム印を使うことにした。政治工作員は常々「自由主義者」は「共産主義者」に酷似しているとして追及するが、実際に極右と極左は似ている。

私は書き直した原稿を版下屋に送り、日曜日の朝に受け取る約束をした。既にある旅館に目をつけてあり、その旅館は商人相手だったので、日曜日には客がいなかった。私は魏廷朝と旅館で待ち合わせ、文字を換えた。彭教授も自ら旅館の部屋に来て作業に参加した。彼は時間通りにやってきて活字を拾い、完成したら帰って行った。誠実でていねいで、情熱的で、真面目であった。私は深く感動した。

私と魏廷朝は約束の時間に、版下をポルノ小説の印刷工場に送り届けた。いたく需要があるのか、日曜日でも忙しげに印刷をしていた。主人は今の分が終われば私の番だから少し待つようにと言った。この工場には四台の自動印刷機があり、全部稼動していた。一人の若い職工が版を持ち上げて読もうとした。先手を打つ必要があった。文章には表題がないが、私は彼に、これは試験問題だから読ませられないと言った。主人は私に、読めないものは印刷しないと言った。そこで私は版下を運び出し、魏廷朝に手伝ってもらって森林南路の住まいに運んだ。

印刷業に対する国民党の管制は厳格を極めたが、ポルノは規制しなかった。殷海光教授が言うには、国民党は全面的に思想統制をしているが、黄色黒色(エログロ)の文章については自由にさせて、人民の情緒のはけ口にしているということだった。この点は、後に政権を執った民進党が特に風俗産業を取り締まったことと、顕著な対比をみせている。
萬華から版を持ち帰ったので、もう萬華には顔を出したくなかった。そこで大稻埕と圓環で小さい印刷工場を探した。電話帳が私の情報源になった。帰綏街に何軒か印刷工場があった。「三能印刷」という工場に頼むことにし、印刷の日を九月二十日にした。なぜ九月二十日かというと、彭教授が私に、学校が始まるので、授業のための教材を準備しなければならないと言ったからである。九月二十日は夏休みの最後の休日で中秋節でもあったので、工員は休んでおり、主人が自分で印刷しなければならなかった。「黒い手の主人」という言葉があるが、これは労働者でもある店主のことである。この主人は文盲でもあり、正に天の助けであった。
(訳注:黒い手とは実際に手を汚す人のことも指すので、ここでは禁制品を印刷する人という二重の意味がある)

萎びた顔の中年男は頑迷で厳しかったが、声が少しうわずっていた。
「誰が二百枚持ち出したのか、調べなければならないんだ。こんなビラが流出したら大変だ。」
私は繰り返した。
「印刷屋の主人も密告できるし、盗みもできる。近所の子供も密告できるし、盗みもできる。警察かもしれない。警察が窃盗団とグルになった事件もあるでしょう?」
小太りの男が入って来ると、萎びた顔の男が出て行き、ドアを閉めた。
「おまえのことを調べているが、おまえは陸軍士官学校で教え、魏廷朝も軍事情報局で仕事をしていた。陰謀がだいぶ進行していたようだな。」と、小太りの男が新たな容疑を持ち出してきた。
「圓山の後ろの軍事情報局で魏延朝に会ったことはあります。彼は軍事情報局の招聘人員の試験に合格しました。仕事は上司から渡される英文と日本文の資料の翻訳だけです。実際の情報工作はしないし、秘密の使命もありません。それにすぐに自分で辞めて、中央研究所で働いていました。」と私は反駁した。
「私もそう思うよ。魏廷朝は単純素朴で、答えはいつもはっきりしている。お前の印刷の仕事はプロの仕事だ。大したものだ。」と彼は善意を表した。
小太りの男の話は自然なものだった。当初の敵意に満ちた眼差しは消えており、ひときわ温厚で親切な感じがした。
「お前は日本へは行っていないが、ある日本の外交官研修員があちこちでおまえを探している。お前の外国との関係を全部言え。」彼は小さな声で言った。
私の心に一抹の不安がよぎった。


                
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